BlackIceCoffeePhenomenon

溶け出す氷によって味が薄くなると併せ、味覚が苦味に慣れていくことで、加速度的に味覚への刺激が減衰する現象に関するブログです。

自由の消失

火のつく消毒剤を含んでの書き込み。

 

5月21日のニュースの一つに、ある登山家数回挑戦した
エベレストにて死亡したという内容。
年齢を見れば35歳で、小学校の範囲なら一緒の学校にいる年齢だ。

その人の行動や生き様に関しては賛否はあるけど
自らが望み、行動し実現し、本望の果てにそこに至ったのなら
それをすごく羨ましく思う。

 

口を開けば、と言うほどでもないけど要所要所で
どこか遠くへ行きたい、と思う限りで
だけど思うだけで具体的な目的も、そのための道のりも
何も考えていない自分には眩しい限りだ。

 

例えるなら一つ向こうの山を超える事は未見の山でも難くなく
手元にある素材、発想、山越えまでに見つける素材の工夫で
こなすことができる。

一方で3つ向こうの山、果ては先が見えない遠くの場所に関して弱い
目に見えない、予想できる場所のさらに向こうを見るのは、あまりよくないらしい。


いわゆる大局観と勇気の欠如。

 

夏休みの宿題がまさにそれだろう。

最終日までの間に終わらせるための計画みたいなもの。

1日各教科1ページとかわかりきった指針がありつつ
でも夏休みだからお泊りとかの例外がある。
パスした分を翌日まとめてするという
その場での臨時的な方針が立てられないのだ。

 

結果的にどうなるかと言うと下のどっちかだった。
夏休み開始3日目で夏休みの思い出も含めすべてを終わらせる
or
夏休み最後3日目で夏休みの目標を考えてすべてを終わらせる

学童後半は大体後者。

 

 

ここから件名に少しずつ迫るわけですが、
ある人の言葉をずっと覚えていて、それは身につまされる内容だ。

「なんでもできる環境にいると、何もできない自分を思い知る」

自由とは文字通り自由であって、
それは束縛の枠から見えない能力の限界を思い知る指標である。と考える。

 

学童であれ社会人であれ社会に関わりを持つ以上
そこで手に入る自由は、鳥籠の中の自由に過ぎない。
その鳥籠の中でさえ、飛び回る事に慎重になるのだ。
外敵もいないのに、無力と言うものを身を以て知る。
そこに自我はあるのだろうか。
そのための無知の知というフレーズは生まれるべくして生まれたと思う。

 

一方でそこで手に入る自由以外のモノと言えば抑圧であろう。
規律や規則に従順し、エゴを押し殺し過ごす日々だ。

抑圧と自由の比率が2:5というのは未だに納得できない。

 

抑圧が過ぎれば萎縮するし
自由が過ぎれば自己は霧散する。

 

では果たして、思うが儘の自由はどこにあるのだろう。
思いを張り巡らせた先にあるのは
大局観と勇気になる。

 

 

 

もう少しばかりの勇気と、
その勇気を後押しする大局観があれば・・・