BlackIceCoffeePhenomenon

溶け出す氷によって味が薄くなると併せ、味覚が苦味に慣れていくことで、加速度的に味覚への刺激が減衰する現象に関するブログです。

過去を語る人が描き出す景色は美しい

Youtubeで道化を演じる人にも、街中ですれ違う人も、
秋葉原の電気街口でブンチキブンチキ言ってる人にも、
満員電車の中でただ時間を待つ人にも、
等しく人生という物語を過ごしてきた事実があって
その物語は語り切れないほどのボリュームを持っている。
ただ街を歩くにしても、目に映る景色を圧倒的に超える物語がそこにあるんだ。

そして人生は時間の旅であり、過去の積み重ねの果てにある今だったりする。
過去が過去である以上、もう今にはないモノも数多くある。

もう今にはない景色を語る。
それを語る時、その過去に生きていたような語り口は、
それが本当に実在しているかのように、完璧に構成された世界を詠い
間違いなくその時の、その人生の主人公が
その人だったんだって疑う余地はなかったりする。

だけど私はそれを観測する術を持たない。
観測できる範囲は、自分だけ、そして覚えている範囲だけ。
自分が覚えている範囲だけだからこそ、
こういうところに怪文書として残しまくってるわけで
誰かに観測されていたら、そもそも・・・というものである。

 

過去とは今は失われた甘美な果実であり、
今は手が届かなくなってしまった、砂の山から砂金を見つけたような
話しを聞くのはとても楽しい。
しかも微妙に、自分の過去の人生にもリンクしているのだからさらに面白い。

 

そんなかつてあった世界と、そんなものはとうに失われた今という対比が
どこか回送電車を思わせる。
あれだけどこかの目的地を求め乗り合わせた人が居たはずなのに、
誰もいなく、そして目的地もない。

たまに後ろを見て回送電車を見送りつつ、
次の乗り換えを考えていくのだろう、夕べぼんやり思いながら
夢の中へと、いや普通に寝ただけだ。

何かをやりたいという事

平均寿命はあくまで平均だし、平均なんて人は存在しない。あくまで作り出された統計上に概念にすぎない。そして私はアラサーで言えば既にアラウンドしていて、不摂生が祟ってエンドルートの未来が確定してるとするなら、人生的には既に折り返しに差し掛かってるわけだ。

ジャネーの法則からすれば、20歳で人生の半分は終わってるんだけど、仮に80歳まで生きたとしたら20歳で体感時間の6割が終わってると言われるほどなので、そろそろ7割くらいなのかなと。

 

昔の話になるけど子供の頃に社会見学というよりはもっと粗末な形で、老人ホームとかに行くみたいなイベントがあった。いわゆる老人と子供が1日触れ合うみたいなそんなやつ。

そこで会った老人は、子供があまり好きでなくぎこちない感じ触れ合いがあったんだけど、他の子はそれなりに充実していたらしく、いろんな昔話に花を咲かせたらしい。

とはいえ老人ホームと呼ぶくらいなので、そこに住む人たちは施設に入ってからお迎えが来るその日まで、およそ自由はなく・・・というより自由に何かをする事が困難だから、そこにいるわけで物語のエンディング前にクライマックスが必ずしもあるわけではないな、というのをその頃の私は感じていたりした。
アクション映画や必殺仕事人とかなら進行的に8割の所でクライマックスがあって、1割のクライマックスのあと、最後の9割から10割の所で締めを迎えるわけだけど、人生はそうでない。

クライマックスを迎えずに施設に入れば、そこが物語の何割であれ最後まで締めのフェーズなわけで、6割くらいから入ったらたまったものじゃないなと。

 

そう考えると、動けなくなる前にクライマックスを用意し、そのクライマックスを自らやる必要があると思うのだ。

やりたいと思っていた事をやらずに締めがやってきたら、きっと後悔するだろう。あれだけ時間があったのに、なぜしてこなかったのだと。

最近そういう焦燥感が頭をよぎる。

 

じゃあ、その何かをやればいいんだけど、その何かは何だろうと。

 

無邪気な子供ならパイロットになりたいとか、マリオになりたいとかそういうのがあるんだけど、残念ながら半分を過ぎている。その半分の中で観測したものは、夢が思っていたより魅力的でない事に気づく機会だったり、その夢を実現するための道のりが非常に困難で失う事や傷つく事を要求されそれが不安で諦めた事実であったり、実際にやってみたけど実を結ぶ事がなかったという記憶だったりするわけで、幾何の人はそれに打ちのめされた果ての今があるのではないかと思う。

 

さて何をやろう。

自分の頭が世界を認識できるうちに、自分に決着をつける事。

 

あぁ、バイクで世界一周、やってみたいな。

 

勇気か無謀か言えば、明らかに無謀なんだけど、なんかこれだけはやりたいなという気持ち。少なくとも施設に入る直前でやるのは無理だから、早い方がいいしなんなら今から支度を始めてもいいんじゃないかと思う。
その支度にはたくさんのお金や、海外という土地を過ごす経験値が必要なのですぐには叶わないしそれは仕方ないけど、諦めて施設で後悔したくはないよね。計画を立てたくなる。

 

そういう形で人生に決着をつけようと考えた時、私の人生に結婚と家を持つという道はなくなる。やるとしたら少なくとも決着をつけた後だ。

あとは周りに流されて伴侶を見つけに行こうとしたり、家賃というお金をドブに捨てる行為に嫌気が指して衝動的な事をしないように気を付けなきゃ。人ってあっさり流されちゃうし。

命そのものはどうでもよくて、命が続く間にある時間に価値があって、それを最効率でお金に変換していくのだ。20歳から先はお金に変換する効率を上げるためにやってきたと言っても過言じゃない。でもお金は手段に過ぎないので、付き合いはほどほどにしなきゃな、というのも思った、そんな天気の悪い秋の夜。

 

そこに夏の香りはもう残っていなかった。

あと何回、夏を過ごす事ができるだろうかと感じた、夏至に生まれた人の戯言がこれ。

 

VRChatでイベントをするという事

初めて仮想世界でイベントの主催をやりました。
イベントとも主催ともいうには、まだまだ見直したりしなきゃいけない所は多々あるんですが。

リアルでイベントをやる時って2パターンあります。私は大体どっちかです。

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何がわからないのかわからないはどうしようもない

未だに会社の事はよくわかってません。

このわからないというのが、不安の種になる人もいれば、オラわくわくすっぞになる人もいるんだけど私は前者なので、割とずっとよくわからないもやもやとしたものを抱えています。

とにかく情報を共有するアイテムがない。基本設計書もなければWBSもないわけで、焦るべきなのか手を抜くべきなのかその辺がまったくわからない。IT屋さんなんだけどな。

仕事がたくさんあって、それを終えるために必要なものがはっきりしてる時の忙しさは心地よいんだけど、周りは夜目が効く状態の暗闇を歩くのは結構しんどい。

一週間に一度、上の人と30分お話する機会があるけど、なんやかんやで言いくるめられたりするので、来週は強く出ようと考えているところです。

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とまぁ、そんな感じの文章を書いてもつまらないので、
いつも通りの怪文章と行きましょう。

 

古今東西だいたいの人が一度は口にしたことがあるであろう
昔は良かったというフレーズ。

私もそれをよく思う事が多く暇になったりすると、ふいに高校生でゲーセン通い詰めだった頃の事を思い出す。夜通しゲームして友達と話してという飛びっきりの時間だった。

社会に出て適当なバイトや派遣をしてた頃もそこそこ適当やって、夜から友達と遊びにでかけたりなんてのも楽しかった。

 

それからいくつか会社や現場を巡り今の会社に私はいるわけで、そのいろんな所はどれもがあんまりいい思い出ではないが、いい思い出ではないなりにそこそこ記憶改変され美化されている。

 

思うに現場や会社が変わるイベントは、それまで当たり前だった世界が崩壊した時に、かつてあったけど今は失われた「幸せな日常」という実際はありもしないのに存在するものとして作ろうとする脳の構造みたいなのがあると思う。

もちろん今の自分の意識にとっては、そうやって作られた「幸せな日常」がイベントを通して喪失したと認識する。

従って「幸せな日常」は常に過去にしか存在しない。

結果的に日常はメビウスの輪のようにいびつで閉じた構造をしていて、日常の持ち主がその幸福を手にする事は決してない。

 

ちなみに誤解を招くとあれなので補足するけど、ついったーでのやり取りや、今夜も会う電脳世界の友達や、週末雑に飲んだりする友達と過ごした時間は「幸せな一日」であり、ここで触れられてる「幸せな日常」とはまた違うものだと書いておきます。

 

それはそれ。

 

幸せな一日とは、ボケればきちんと突っ込んでもらえるような気心の知れた世界で一日を過ごす事である。

 

そういう楽しい思い出はたくさんついったーに書いておこう。
ログは多ければ多いほどいいし、フィルタリングはそれぞれがやってくれる。

満ち欠ける感情の波のようなものは確かにあって

今日はおだやかな一日を過ごしてます。

仕事の炎上具合としては相変わらずガソリンが漏れてて、いつ発火してもおかしくないそんなヒリついた空気が漂ってます。暑くはなく少し肌寒いこの感じは絶好のキャンプ日和なんですが、大体そういう時、夜が半端なく寒くなるのでダメです。そんなときにガソリンで燃え上がるキャンプファイヤーはどんだけ温かい事でしょう。

 

夕べまで今更やる必要のない焦燥感に追い立てられアウアウしてたけど、寝て覚めればそんなのも忘れるので人間ちょろいです。そういう時、決まってテキストにその時思った事や感じた事を書き出すんだけど、それにあまりピンとこないので打ち寄せた感情の波は静かに引いて行ってしまいました。

 

出来る事をやる人生と、やりたい事をやる人生は別

 

ってタイトルで書いてて、そこから怪文章が綴られてるんだけど、今見てもそこまで燃えないので、また火が付いたときに書きましょう。

 

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ぼんやりVRChatを2年くらいやってて気づいたことがあって、これ北海道バイクツーリングに近い感じがするな、と。 1週間くらいかけて行う北海道のバイクツーリングは一人で完結する事はほぼなく、キャンプ場なりライダーハウスに行ってその夜だけの会話が生まれ、それは空に浮かぶ雲のように二度同じ夜はないと感じる。

それもそのはず、世代も出身も違う人がバイクで北海道に来ているという共通点だけで会話は行われる。今日どこから来て明日どこへ行くよ?明日あそこに行くんだがおすすめの飯屋はあるか?あそこのキャンプ場はクマが出没した、気をつけろ。さながらファンタジーな物語の酒場と言っても過言じゃない。

 

VRChatもプレースタイルによるが、概ねそういうロール(駒)のような事ができる。

年齢の範囲はある程度狭くなるが、それでも出身の異なる人が同じ空間にいるという共通点から会話は行われる。ねぇねぇ君可愛いね?いくつ?どこ住み?てかVRChatやってる?さながらファンタジーな物語の酒場と言うにはほど遠い。

 

というかそんなプレーするのは稀だ。いつの間にかできたフレンドといつも通りバカしたり、景色をおかずに雑談したり、そういう感じがいいんだ。ただたまに偶然そこにいる人に声をかけて、当たり障りのない話を少しして去ったりする遊び方は面白い。タクシードライバーとの会話とかに近い。

 

その会話の加減がわからないって?

底を突き破らないように、パック納豆をかき混ぜるくらいの加減と同じだ。

 

こうしょうはデザートまでお預けで。

高校を出てすぐ社会に出た時は、年上の人に囲まれ知識であったり、情報だったりも当然そのレベルに合わせて行ったりなんてしていったものです。

そんな事もあって、モラトリアムの4年(一部の人は8年)の人と少しずつすれ違っていく。でもまぁ世の中そんなもんで、いつまでも一緒のレールの上なんてものはない。そして今でもそんな年上の人との交流は続けていて、大切にしてます。

 

なぜなら、ゆるやかに人生のネタバレが語られているから。
わかりやすい所で言えば、体の衰えなんて情報出回りすぎて常識なほど。誰もが知ってる情報に価値はない。知らない人がいるから情報は価値を持ち人は情報を手に入れようとするんだ。そうなると、誰もが簡単に手に入れられない情報は取りに行く価値がある。

だって人生には成功というものはなくて、あるとすればそれは無数の失敗なわけで、それを少しでも回避するために、情報を集めて回る。そして情報弱者にも咀嚼できるくらい柔らかくしたものが名言なんて言われるものだったりするけど、そこに原体験はない。

 

ここまで書いたところで、打算で付き合ってるのか?と言われるとそれはノーだ。そもそも交友を打算でやるなんて論外だ。その人が好きだから交友するに決まっているだろう。それがたまたま年上の人が多いだけで、そろそろその流れは逆回転を始め、年下との交流も増えていくだろう。なぜなら私が年上になっていってるからだ。

 

-日記-

入社してからというもの、よくやってるねという評価をうけつつも、一部から求められてる役割には届いてない部分もあって、後者のほうでダメージを受けるみたいな感じが続いてます。無茶振りは業界的にあるあるなもので仕方ないけど、それで起きた事に手を貸さないどころかケチつけるのは、なかなかしんどい。そうなると嫌な気分を引きずる事が多く、在宅だと気分転換もないし心が仕事に喰われたままになる。


スーパーに行ったり、シャワーを浴びたりするたびに、仕事の事を考えないように意識を傾ける。そうでないとずっとコテンパンにされた事が頭をめぐるからだ。

やっぱり気持ちよく仕事をしたいし、そのための努力は惜しまないけど、それに適応した筋肉がつくまでには何度も筋肉痛になるわけで、もうしばらくかかりそうだ。

なるべくならさっさと適応してしまいたい。出世に興味はないし、ほどよく仕事を済まして仕事以外で遊んで暮らせる金があればいい。そしてその金は多ければ多いほどいい。その為にどこまでやるか、そんな境目を過ごしてます。

 

先日、秋葉原で飲んだ時は実によかった。
そんな葛藤を忘れて、気持ちよく飲めるし、他愛のない話をするのは実に良い。
美味い酒と上手い肉をもっと食べるために、身を投じるのだ

 

就職して1カ月が経過しました。

通信屋さんのなんちゃってクラウド開発の仕事を始めて1カ月になりました。

いわゆるグループ企業的な所で人数もそこまで多くない会社なので、所掌する範囲がかなり広く、単純にこれまでの知識だけでは太刀打ちできない所に、まだ興味や学習の余地がある感じです。

IT系というとパソコンに向かい黙々とキーボードを打ち込むようなイメージがあるかもしれませんが実際の所それは半分くらいで、あとの半分は打ち合わせやレビューといったコミュニケーションが多く、そこそこなりのコミュニケーション能力が必要になります。

しかもそのコミュ力というのは、うぇーい!的な路線と言うより、
伝えたい事が正しく伝えられ、正しく受け取られているか、という
プロトコルのようなものなので、この仕事を続けたからと言って
うぇーい!な感じにはなれません。

昨今の事情からリモートワークはご多分に漏れず導入されてますが、これらは
2010年の頃みたいなTwitterによるマーケティングの開拓や
自社の技術ブログを公開するとか、
LINEで連絡とり合うとか
そういうものの延長線に過ぎず、変化に適用できない会社は取り残されていきます。

そして10年もすると技術革新が進み、
自社のファイルサーバーで完結してたものが、Googleドライブにコピーされたり、SVNで管理されてたドキュメントも、バージョンめちゃくちゃでアップされたりして、情報の沼にハマってまぁ大変。

 

技術の文書化、文書の一元管理、文書の世代管理は大事な事です。

今の会社にはそれがないため、属人化していて誰かに聞く事になってます。

そうして知識を蓄えていくと、全員がプロフェッショナルな現場が出来上がります。

頼む、文書化してくれ!全員が戦士のPTで行けるダンジョンは限られるぞ!

ドキュメントでいつでも見られるようにして戦士としての記憶のテーブルを空ければ、もっといろんな分野を知れるはずで、そうしてできたウィザードやヒーラーのいるPTを作ろうよ。

 

そんな事を切に願う職場です。
まだつらくはない。 というかつらい、つらくないは個人の感じ方なので、
つらくないと思っていれば大丈夫です。

そして来週もいろんな人に聞いて回るんだろうなあ。
実にコミュニケーションの多い業界だ。