やっとこせDJMAX RESPECT Vの実績を全部解禁できた。400時間くらいかかった。うち250時間くらいは漠然と遊んでるだけだったが、こんだけ遊べばもう十分だろうってくらいには遊んだ。

じゃあ、これでゲームは終わりかと言うとそうでもなく、なんだかんだで曲がいいから続けている。半分くらいは習慣になっている。
Windows95が巷で使われ出したころ、初めて与えられたパソコンはPC88だったので解像度という考え方自体があまりなかった。それから何年かしてお古のPC-9821を貰って今に至るまでの長い道のりが始まったわけだけど、当時の解像度と言えば確か640x400とかだった気がする。
今のモニターでその大きさはもはや粒みたいなものだけど、それで十分だった時代を生きてた。CPUもPentiumの75MHzで事足りて・・・はなかった。やっぱり133MHzは欲しかった。メモリに関してはDDRなんてものじゃなくSRAMで16MBしかなくてWindows95が起動したその時から既にページングが発生していて、よくこんなもの普通に出てたなと今でも思う。結局アプライドにいって32MBのメモリ足したら快適になったとかそんな感じ。
話は脱線したんだけど、最近はその解像度を少しずつ上げようみたいなことを考えている。解像度というか理解度なのかな。 地元に帰ってから、ニュース見たり祭りを覗きに行ったりするたびに、その街や施設に対する理解度が少しずつ上がってきてる感じがする。
町中華の美味しさを美味しいだけで終わらせずに、どういう調理味付けしたんだろうみたいな考察を入れるみたいなそんな感じだ。
テレビはなかなか邪悪なもので、映像を見ると行った気になるし、実際行くと天候に左右されて映像よりしょぼい時すらある。なので最近は景色よりも空気感を味わう方にシフトしてきた。その空気感は歴史の事がかかれたボードを読んだり、草刈りなどの手入れの程度から読み取れるそこにいる人の愛着感だったりする。
ついでに取れ高になる写真をついったーに貼れれば理想だけど、昔ほど貼り付けなくなったと思う。景色を見て、わぁってなる感度が鈍ってきたかもしれない。
こういった特に生産性を伴わない寝坊助が行う漠然とした暇つぶしは、結婚してからも大して変わっていない状態である。行く場所や食べるものの選択肢が増えて理解度も上がっているといった感じだ。
今の生活は間違いなく幸せであると思う。ただその幸せと認知するために費やされる時間は、かつて一人暮らしだった頃に景色の良い高原で冷たい缶コーヒー飲みながら吸う煙草であったり、季節限定のビールを昼から飲んで気持ちよく街を歩いたりしてた、あの幸せの上に乗っているのである。
どちらの幸せもとても良いものなので、好きな時に好きな幸せを選り取り見取りに取れたらこれ以上にない人生だろうけど、それが失われた瞬間につらくなるだろうから今は指をくわえて眺めていよう
そろそろカルディの粉コーヒーにサマーブレンドが出るころじゃないかな。