BlackIceCoffeePhenomenon

溶け出す氷によって味が薄くなると併せ、味覚が苦味に慣れていくことで、加速度的に味覚への刺激が減衰する現象に関するブログです。

泳ぐ鳥と共に、砂漠を漕ぐ

ネット回線繋がるまでの間に書いてた怪文章。

 

 

東京に出る必要があった。


学校に送られてきた求人票の中で唯一関東の求人について、その地域が面白そうだからという理由だけだが。
その目論見は間違ってなく、コミケに行き、M3に行き、深夜アニメを実況し、リナカフェでオフをしたり、まさしくオタクとして最高の理想そのものに囲まれて生きていられる事が良かった。

 

mixiが徐々に凋落を迎え、ニコニコ動画オタッキーな人向けからアンテナの強い人に察知され始めたり、muzieがハッキングされたり、激動の中でTwitterがやってきたりとかするような祭りのような日々があった。
そしてネット世界だとTwitterキャズムを超える前は毎晩が祭りのようだった。

祭り自体はいにしえの時代なら割れMP3とかWinnyとかあったし、ネトゲ中毒になったり、ニコ動に毎晩張り付いたり、Twitterの実況に参戦したり。ネットではリアルタイムでそこかしこにある祭りに参加している感じだった。

 

選んだ消費を嗜む民と、与えられた消費を啄む大衆一般の壁は確かにあったが2011年3月11日からその壁は消えた。
震災を以て、ネット世界と現実世界の壁は消え失せタイムラインをただ消費するだけの人がやってきたのだ。
そうして今のTwitterでは祭りと言えるようなものはなく、あるのは営みに過ぎない。
その営みも、嫌な気分になるものを見て嫌な気分になるみたいな下らないもの。
箸の持ち方、エスカレーター歩く奴、こんな事言われましたのコーナー、言い返せなかったけど言い返したことにして喝采のコーナー。
余談だが、そこにかつてインテリとエスプリを備えた人がそこに飲み込まれていく様子は諸行無常を感じざる得なかった。

明確な悪意を持った誹謗中傷さえコンテンツとして楽しんでた我々とは別に、リテラシーのない無邪気な悪意という、品質の低いコンテンツがタイムラインを埋め尽くした。


そして2010年代からは地域で縛られた祭りはタイムラインの進化で解消した。
もちろん今でもコミケみたいな、場所に縛られたものは残るが、リアルタイムである事は賃金の高さと同じように価値を持っていると思う。
今から、けものフレンズを見て当時と同じように楽しめるかというと、きっと否であろう。深夜アニメ実況については動画サービスの普及によって、地域や視聴時刻が違ってもコンテンツが提供する体験が味わえる。
だけどそこには、リアルタイムだからこその空気感の装飾はない。

故にリアルタイムである事は結構重要な意味を持っていると思う。
リアルタイムである事だけを追求するならそこに場所の必然性が薄れた今の時代に
コストをかけてまで、そこにいる必要はなくなった。

 


ここまで書いた文章は、都落ちに向けて何度も書いてきた気がするけど、改めて脳内で整理してる感じだ。


話は変わるが新居のネット回線が繋がるまで、オフラインだからこそ享受できる蒐集したローカルコンテンツにやっと手が出せた。
買うだけ買って、いつか見る聞くリストに入れてた山ほどのコンテンツに手が出せた。ネットがあるとリアルタイムでコンテンツが流れ続けるのでなかなか手が出せなかったのだ。

部屋を片付けてる時に昔のコミックを開いた時のような時間の潰し方で、ネット回線の開通を待ってる。
その中で思ったことがある。

 

2008年、2013年とかの音楽を聴くと、あの時あの場所に居られてよかったと思うほど痺れる事がある。
元々そのコンテンツの良さもあるが、リアルタイムという味付けというか脳内補正がコンテンツを燦然と輝かせている。きっと今の時代に初めてストリーミングで聞いたとしてもそこまで心は震えないだろう。


そう思うと、あの時気まぐれに関東に行き、そこで過ごした日々はとても良かったと思える。よくわからないまま過ぎていった日々が、今になれば極彩色の日々であったと思う。その中にはオンラインでは決して出る事のない、その場所のリアルタイムの空気感を享受できたからだ。
ネットでは決して出ないような言葉が聞けたりする、あの時間の価値は果てしない。
限られた人にしかわからない情報を手に入れる行為が、私にとってのオタクがオタクであるためのモノだからと思っているからだ。

 


だけどその秘密の情報に対しての対価を払ってこなかった事だけが悔やまれる。
好きである事と、好きである事を伝える事は別だと思ってるからだ。

 

あまり日差しの下にいるような人生ではなかったので、文字通りの「陰ながら応援する」のが性に合っていた。
なぜなら掛ける言葉が、モチベーションになるかプレッシャーになるかわからない事にリスクは負えないから。
ありきたりな言葉はテンプレートとして消費され、所詮は浅い人と思われるだろうし、
熟慮を重ねた言葉は重荷を背負わせてしまうかもしれない。

たかが一個人の言動で、それも偉くも何ともない人の言葉で他人の人生を変えてしまい、本当だったら得られるはずだったものが、歪んだ形になってしまうのは何としても避けたかった。空を褒めたいと思った時、空を褒めるような言葉を紡いだとして、空は心から喜べるだろうか。

だけど、少しは伝えても良かったのかもしれない。と思うようになった。行動はまだできてないが。

 

創作者はリアクションを期待して湖面に石を投げたのに、波紋を描かない湖面にまた石を投げようとは思えないだろう。
でもその池の中には、投げ込まれた石に反応する魚は確かにいる事に気づけてもらえたら、魚はそれだけで幸せである。


そんなことを思いながら、PCに取り込んでそのままほったらかしだった音楽を聴いている。
リアルタイムから解き放たれる時間が必要だったんだ。
リアルタイムで聞けたら、もっと味は濃く脳内に焼き付いていたかもしれない後悔をスパイスにして。

ネットが繋がるころには、そんな事を感じる余裕もないほど、
味のないガムを嚙むようなリアルタイムにまた戻っていくんだろう。
そのようにして出勤と退勤を刻むだけの日々を続けていくんだろう。

 

そんなのでいい。

周回遅れの感動と後悔は、見つめるべき今を見失ってしまうからね。
懐古ばかりやっていては、紡いでいく明日がおざなりになるからね。